こんにちは。マミヤ(@mamiya_7)です。
今回のレビューは『ハーモニー』です。
原作は未読なのですが、伊藤計劃作品には触れてみたいなと思っていたので、TOHOシネマズ新宿にて観にいきました。
モノローグが多めなところや世界観の補強としての引用の多用など、おもしろい作品だなと思いました。
これを期に原作も読みたいところです(こう思わせた時点で小説原作映画としては成功という気もします)。
ここからは結末部などネタバレも入ってまいりますのでご注意を。
ということで、以下レビューです。
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世界観・設定
過去の大災禍によって、医療技術が格段に上昇し極度な生命主義に傾倒している世界。日本においては、他人を思いやることが是とされ、少しでも負の感情を持とうものなら無自覚な生命主義者に気遣われてしまう。親しい間柄でもないというのに。このような、「やさしさによって管理された社会」が『ハーモニー』の主な舞台となる。
『ハーモニー』の世界は医療技術が格段した世界だと書いたが、それは人を生かすための社会と言い換えてもいい。その社会が生み出した恩恵として、「Watchme」というナノマシンが挙げられる。それは人々の身体を隅々まで分析し、栄養管理や体調のチェックを行う役割を担う。そしてその都度、必要なサプリなどを「メディケア」という一家に一台ある薬剤調合装置によって補給するというわけである。こういった体内を監視するシステムのおかげで、『ハーモニー』の世界には「病気による死はなくなった」という。しかし極端に言えば、飲酒や煙草などの不摂生は禁じられ、少しでも異変があれば、システムによって感知され、いつ何時も監視・管理されるような社会をも生み出したのだ。「個人の生は、公共の資産である」という生命主義の掲げる理念が成せる業である。
世界的に生命主義の流れに傾倒しているので、当然Watchmeは世界中に普及している。しかしWatchmeのシステム下にないものたちもいる。それは成人を迎える前の子どもや発展途上国のシステムの恩恵に与れない人たちだ。Watchmeは恒常的な健康状態を観察するようにプログラムされており、子どもは日々身体が変化するものだから、身体が成長しきるまでは導入することができないのである。
物語の発端――少女たちについて
霧慧トァン、御冷ミァハ、零下堂キアンは「同志」である。彼女らはともに学び、生を営む者たちだ。そして、彼女らにはある共通の目的がある、それは管理された世界からの脱出、つまり自由だ。
健康状態を管理されるようになるということは、自らの身体を自由に扱うことができなくなるということである。成人を迎えればWatchmeを身体にインストールされ、誰かによって生きることを強制される。それなら自由を失うその前に自殺をしよう、というのが目的だった。ミァハはそのシステムを憎むだけでなく、ある種の世間に蔓延する雰囲気をも憎んでいた。「個人の生は公共の資産」という価値観だから、他人に対する過干渉は当たり前で、親密であることが善なのである。ミァハはそこに「やさしさに殺されそう」な感覚を持ち、嫌悪を抱いていた。トァンもそれに同調していく。
トァンとキアン、二人にとってのカリスマであるミァハはその類いまれな知識量と思考、そして実行力によってこの目的の準備を進めていく。「ミァハはいつだって合理的」とはトァンの弁である。
ミァハは社会の構造やそれへの打開策を文学や思想に見出す。ミァハはミシェル・フーコーやゲーテなどを引用し、自分たちの社会はどのようなもので、どうしたら一撃を入れられるかという話を喜々としながらトァンとキアンに話す。
そして自殺を決行するのだが、ミァハだけが死んでしまったことをトァンは聞かされる。トァンの母は娘の生存に喜んだ。そして同時にミァハの死にむせび泣いた。まるで自分のせいだというように。トァンはなんの関係もないものに対して涙を流す母を見て、憎んだ世界に戻ってきたことを痛感する。
13年後、螺旋監察官として紛争地帯を飛び回るトァンは、謹慎を受け日本に戻っていた。そして世界同時多発自殺事件が起こり、「一週間以内に誰か一人を殺さなければ、自殺することになる」という声明が出される。そこにミァハの影を見たトァンは、事件の真相を究明すべく動き出していく。
ミァハが求めた世界
物語が進むにつれ、ミァハの出自や生存していることがわかり、一連の事件も彼女の差し金であることが判明する。
ミァハの犯行目的は、Watchmeに仕組まれた「ハーモニー・プログラム*1」を起動させることだった。ハーモニー・プログラムのアクセス権の一部を有するミァハは、一連の事件を起こすことによって世界を混乱に陥れ、プログラムを起動させる状況を作り上げたのである。
ハーモニー・プログラムを起動することで、ミァハは何がしたかったのか。それは、葛藤や苦悩のない世界の実現である。これはミァハの出自に絡む話だが、彼女の生まれた民族は脳の構造が特殊で、意識がなく物事を自明のものとして認識し、行為しているという。つまり、選択やそれに対する葛藤や苦悩などがないということである。ミァハは紛争のときに慰みもののような扱いを受けたが、そのときですら苦しみはなかった。しかし戦災孤児として御冷夫妻に引き取られたのちに彼女の脳内は一変する。やさしさを強要し、自由を奪う社会に放り出されたときに、憎悪や怒りとともに、意識のようなものがミァハに芽生えた。自由のない社会に置かれて初めて、自己を確立するという皮肉な事態となってしまった。
他人を慈しむことが是とされ、息苦しいほどに調和の取れたこの世界。それを壊したいと考えるほど憎悪していた少女は、この世界に徹しきって調和を完全に保つことで救いを得ようとするのである。そしてトァンは、かつて支配からの逃走をともに夢見た同志が、自由を失くし調和をもたらす使徒となっていることを、目の当たりにする。
このあたりは価値観の転倒が伺える面白いシーンで、自由を合理的に求めた結果、自由であることをなくすほうがいいとするのはミァハらしいなと思った。憎悪や憤怒など負の感情は自身のコントロールを乱すこともあるし、言ってしまえば自由を阻害するものでもあるかもしれない。しかしそれらの感情もあるからこそ、自由や自意識というものを人は持てるのだ。だからこそトァンは決断する。
ハーモニー・プログラムが起動するさなか、二人は抱き合う。「いっしょにいこう」というミァハの言葉に対し、トァンは「ミァハだけはいかせない」と銃の引鉄を引く。
「ミァハはあのころのミァハのままでいて」トァンの意識が消えゆく中、<ハレルヤ>の言葉が並ぶ。それは失われる人間性への鎮魂歌のようでもあり、新世界への讃美歌のようでもある。そして、完璧なる調和が世界を充たしていくのである。
トァンが望んだ選択
本作は、自由意志や意識をテーマに物語が紡がれる。この最後の場面が本作のテーマを最も色濃く描写しているように思う。自由であることってなんだ、そのことをトァンを通して知ることができるようにわたしは思う。
トァンは自らに由る意志で引鉄を引く。それは愛するがゆえの行動だ。そんなことをしても完璧な調和を乱すことができないのは承知だろう。しかし、ミァハがミァハでなくなる前に、愛する者の自由だけは救おうとしたのだ。
自由を渇望したかつてのミァハへの手向けであるかのように、ハーモニーに充たされる世界を銃声が響き渡る。
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余談
この記事を書き始めたときは原作をもってなかったんですが(まえがきになごりがありますね笑)、書き終わる前に入手してしまいました。三分の一ほど読んだんですが、読み終わっちゃう前にとにかく映画版の印象を記録しておきたいと思い書きました。
自分の中でまとまってないこともたくさんあるので、小説を読んで補完していきたいところです。
わたしのレビューはだいたい、あらすじを追いつつ、こういうことがテーマなのかなという書き方をしてますが、どこまで物語のディテールにこだわって書くか悩ましいですねぇ。語り口も模索していきたいところ。うーん、今後の課題です…。
あとテーマ以外のことも書いておくと、声優陣の演技はさすがでした!とくにミァハを演じる上田麗奈の演技は彼女にしかできないものだと思いました。か細いながらも、存在感のある声はくせになりそうです!ミァハがこの方でよかったなぁと。
ということでマミヤでした。それでは♪
↑原作文庫版。映画のキャラデザが表紙の新版もありますが、こちらのまっさらな装丁も味わい深い。
↑帰属する社会に対して疑念を持ち、自分に従うという意味では近い部分があるかもしれません。
↑生を公共の資産としてさらけ出されるのが『ハーモニー』ならば、現代日本の村社会を舞台にした『ここさけ』はひた隠しにしてきたものを自分で吐き出すお話です。
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ハーモニー
2015,日本
配給 東宝
スタッフ
原作 伊藤計劃
監督 なかむらたかし、マイケル・アリアス
演出 廣田裕介
脚本 山本幸治
企画・制作 フジテレビ
チーフプロデューサ 山本幸治
キャラクター創造・原案 redjuice
キャラクター・デザイン 田中孝弘
メカデザイン 渡辺浩二
音楽 池頼広
アニメーション制作 STUDIO4℃
キャスト
霧慧トァン 沢城みゆき
御冷ミァハ 上田麗奈
零下堂キアン 洲崎綾
オスカー・シュタウフェンベルク 榊原良子
アサフ 大塚明夫
エリヤ・ヴァシロフ 三木眞一郎
冴紀ケイタ チョー
霧慧ヌァザ 森田順平
*1:人間の意識を消失させるプログラム。生命主義社会が危機に見舞われたときの最終手段。