マミヤの忘備録

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見つめる貴女が愛おしい『キャロル』映画レビュー

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キャロル(原題:Carol

2015年,アメリカ、イギリス
配給 ファントム・フィルム

スタッフ
監督 トッド・ヘインズ
製作 エリザベス・カールセン、スティーブン・ウーリー、クリスティーン・ベイコン
製作総指揮 テッサ・ロス、ドロシー・バーウィン、トーステン・シュマッカー、ボブ・ワインスタイン、ハーベイ・ワインスタイン、ダニー・パーキンス、ケイト・ブランシェット、アンドリュー・アプトン、ロバート・ジョリフ
原作 パトリシア・ハイスミス
脚本 フィリス・ナジー
撮影 エド・ラックマン
美術 ジュディ・ベッカー
衣装 サンディ・パウエル
編集 アフォンソ・ゴンサウベス
音楽 カーター・バーウェル

キャスト
キャロル・エアード ケイト・ブランシェット
テレーズ・ベリベット ルーニー・マーラ
アビー・ゲーハード サラ・ポールソン
ハージ・エアード カイル・チャンドラー
リチャード・セムコ ジェイク・レイシー 

概要
1950年代のニューヨークを舞台に、人妻のキャロルとデパート店員のテレーズが出会い、抑えることができないほど互いに惹かれあう姿が描かれる。原作は『太陽がいっぱい』などで知られるパトリシア・ハイスミス。英アカデミー賞ゴールデングローブ賞などの各賞を受賞したりと評論家からの評価も高い一作。

 

この作品の魅力はなんといっても、キャロル役のケイト・ブランシェットとテレーズ役のルーニー・マーラの好演にある。余裕のある佇まいのキャロルとまだあどけなさが残るテレーズのほほえましいやりとりは両女優だからこそ出せるものだろう。

物語の展開は二人の関係に収束されており、互いの環境なども描かれるがそれがメインではない。政治的なメッセージを過度に押し出さず展開されるからこそ、この物語は普遍的な愛の物語として広く受容されるのだろう。

また対照的に、時代に翻弄される者たちの物語としても受容することができる。二人の関係を描けば描くほどに時代の制約を感じさせ、その関係のままならなさには監督の問題意識が伺える。メッセージを押し出すのではなく、浮かび上がらせるように鑑賞者に提示する展開は監督の演出の妙だ。

デリケートな事柄を題材にしながらも、多面的な見方が可能なところが本作のすばらしさを物語っている。

 

ここからは物語の結末部にも触れますのでご注意を!

 

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写真家を志しながらも他人に(もしかしたら自分にすら)興味がないテレーズは、日がな一日デパートの売り場を見つめている。そんな彼女がキャロルの姿を一目見た瞬間から、目を奪われてしまう。口を一文字に閉じ、大きな瞳で見つめるテレーズと、口角を上げて流し目で微笑むキャロル、本作を象徴するシーンの一つである。そしてこの出会いが物語を動かすきっかけとなる。

テレーズは視線が特徴的な人物だ。キャロルとの出会いがテレーズの瞳に活気を与え、他人に対する興味を触発することになる。テレーズはキャロルの一挙手一投足をつぶさに見ている。それがゆえに、キャロルの気品の裏にある弱さを垣間見ることになるのだ。キャロルへの眼差しが憧憬から徐々に恋慕へと変わっていく過程は愛おしいと同時に痛ましくもある。

キャロルはテレーズとは逆に視線を向けられている人物だ。テレーズ以外にも、離婚調停中の旦那ハージやその義理の両親など、作中いろんな人物から視線を向けられている。社会的な視線を意識せざるを得ない時代に生きる彼女は、まるで処世術のように余裕のある女性として対外的には振る舞う。しかしその裏にある弱さをテレーズには見せるのだ。

 

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最初は「二人の話なのになんで『キャロル』ってタイトルなんだろう?」と思っていたが、「視線」をキーワードとして考えるとこのタイトルにも納得がいく。つまり本作のタイトルは「テレーズの視線から見た『キャロル』」という意味を含んだものなのである。

このことは物語の流れからも言えて、まず物語の立ち上がりはテレーズがどういう人物なのかということについて描かれる。他人に対して興味を惹かれないテレーズがキャロルとの出会いによって様々な表情を見せるようになっていく。そしてテレーズへの感情移入の下地が整っていくと、だんだんとキャロルの抱える事情があらわになってくる。いつも微笑みを絶やさないキャロルの知られざる弱さを、テレーズの視線に寄り添ってわれわれも見ていくことになるのだ。テレーズは見続けていたい相手と出会い、キャロルは弱さを見せることのできる相手と出会う。それは互いにとって救いであったことは明白だ。

最後は、会食の喧騒をかき分けテレーズの大きな瞳が愛しい人へと向けられる。その視線にキャロルはいつもの微笑みで応じ、画面が静かにフェードアウトしていく。そして『キャロル』という二人の物語は幕を閉じるのである。

 

 

余談・雑記

まとまりを欠きそうだったので本文に入れなかった要素や、本文で書き足りなかったことをつらつらと書きたいと思います。

主役の一方が人妻という時点で親権とかのもめごとがあるんだろうなと思ってましたが、あの一連の場面はきつかったです。「道徳的条項」を持ち出すところなんかは『チョコレートドーナツ』を思い出して、憤りと悲しみでつらかったです。キャロルはたしかに倫理的にどうなのかという行動ばかりしてましたが、そもそも旦那の方も離婚をなかなか認めなかったり、盗聴を証言として使ったりと精神的な負担はすごいものだったろうなと思います。また1950年代なので今以上に同性愛者への差別は強烈で、キャロルは義理の両親に平然と病人扱いされていました。こんな空気が常だなんてあんまりだなと。

さらに、キャロルが自分の心に忠実であるために「私は娘の親にふさわしくない」と自ら認める場面が一番つらかった。1950年代(現代もそうかもしれないけど)においてはここまでの痛みを引き受けなきゃ、マイノリティが自ら望む自分らしさを得られないのか、と。二人の気持ちが通じ合ったラストだったことが救いではあるわけですが…。

わたしはこのように捉えましたが、本文でも書いたとおりメッセージ性が強く押されているわけではなく、(結末なども含めて)どう受け取るかは鑑賞者に委ねられているように思います。繊細な題材を、多様な捉え方ができるように演出するトッド・ヘインズ監督の力量はすごいです。

他には、主役二人の美人ぶりに驚きました。しかも全然タイプが違うのにどちらも魅力的。ファッションも1950年代が舞台なのに古臭さとかはなく単純におしゃれだなぁと思って見てました(おしゃれに詳しいわけではないですが…)。ケイト・ブランシェットルーニー・マーラも、顔がはっきりわかるようなスタイリングで、互いの表情や視線により説得力を与えていたように思います。さらに顔のタイプが違う二人だからこそ、向き合っても互いに映えるんですよね。ゆったり淡々と展開していく作品ですが、ビジュアルのおかげか飽きは感じませんでした。

また、所作やカメラワークで心情を見せる演出は(公にできない時代性というロジカルな部分とも相まって)映像的にもおしゃれで美しいです。

アカデミー賞作品賞にノミネートされなかったのはこれまた時代の制約を感じさせますが、ケイト・ブランシェットルーニー・マーラの二人には主演女優賞・助演女優賞にぜひとも選ばれてほしいなと思っております。

 

ということでマミヤ(@mamiya_7)でした!

それではまた。